『夢の続きに何を願うか』 サンプル
「……」 姜維はおもむろにむくりと上半身を起こした。 ここは彼女の私邸。そういえば今日は早めに床に着いたのだと、頭の片隅で微かな記憶がよみがえる。 すでに深夜である証に、部屋の隅は墨を流したような闇が支配している。それでも辺りが明るいのは、一重に今日が満月の夜だからだ。 月が真南から少し西に傾いている。夜半過ぎだということは分かっていた。 だが、彼女は寝巻の上に上着を羽織ると、靴をはいた。 「……行かなくては」 抑揚のない声が、無表情のままの彼女の口から零れ落ちる。 頭は相変わらずぼんやりしたままだ。夢の続きを見ている気分ではあったが、足元から伝わる冷気が夢ではないと告げている。 私は、夢の中で丞相にお会いした。 そこで策を授けていただいた。 かくなる上はそれを実行に移さねばならない。 目元は虚空を映しており、足元は覚束ない状態であるにもかかわらず、姜維には今自分が何をすべきかだけは、はっきりと認識できていた。 足はまっすぐ、目的の人物の元へと向かっていた。 屋敷を出ると月明かりがいっそう明るく感じられる。何の遮るものもない夜道は、まるで姜維の行く先を導くかのように、はっきりと辿るべき道を照らしていた。 普段の彼女ならば、丸腰で夜道を歩く危険を少しは考えただろうが、今はそんなことは頭にない。幸いなことに人の気配はおろか他のどんな動物の気配も感じない。そこかしこに生えている雑草すら眠りについているかのように、ひたりと静寂が横たわっていた。 姜維は一人夜のしじまを抜けて、とある邸宅の前で立ち止まった。 ここに求める人物がいる。 その思いだけが彼女を動かしていた。 これまでずっと、不用心だと口を酸っぱくして忠告していたのにもかかわらず、その屋敷には見張りらしき者の姿はない。最も、今はそれがやすやす侵入するために功を奏したのだが。 邸宅の内部は何度も訪れているだけあって、ちゃんと頭に入っている。そのおかげで迷うことなく辿りつけた。 主がまだ眠りについていないのか、部屋の中から明りが洩れている。構わず姜維は歩を進めた。 「!? 誰だ?」 部屋の主から、鋭く誰何の声が飛んでくる。当然だ。深夜にいきなり部屋に侵入してきた者がいるのだから。 件の主は、姜維の姿を認めるや大きく目を見開いて驚いたが、侵入者の正体が彼女だと知って、それはそれでほっと肩を撫でおろした。 「何だ、姜維か。びっくりした。どうしたんだ?」 いつもの様子でそう声をかけてきたのは、夏侯覇――――彼女の目的の人物だ。深夜の来訪であるにもかかわらず、彼は自然と姜維を迎え入れる。 「お前、そんな格好で来たのか? 人には散々用心しろとかいう癖に、自分はまるで無防備じゃねえか」 寝巻に上着だけ羽織った格好に、夏侯覇は顔をしかめた。 「こんな時間に急な用事か? でも何か用事があれば、使いを寄越せよ。俺がお前のとこに行くからさ」 「夏侯覇殿」 姜維は心配する夏侯覇の言葉には一切反応せず、まっすぐ彼の元まで歩いて行くと、 「!?」 かがみこんで、ふわりと唇を重ねた。 「な、姜維!?」 突然のことに慌てふためく夏侯覇を、そのまま力の限り抱きしめる。 「夏侯覇殿、お願いがあるんです」 「な、何だ?」 「この先、ずっと一緒にいて下さい。何があっても、私についてきてほしい」 姜維は、諸葛亮から告げられた通りの言葉を口にした。 「あなたが私の望みを叶えて下さるなら」 いったん体を離して、上着を脱ぐ。 「私をあなたに差し上げます」 はらりと滑り落ちた上着にはお構いなしに、夏侯覇はじっと姜維の目を見据える。等身が夏侯覇の方が低いから下から見上げる形になっているのだが、真正面から射抜く眼差しは童顔に似合わず鋭い。 「姜維」 夏侯覇は手を伸ばした。 |