『手を繋いで』 サンプル



――――悪いな、呼び出したりして。


 ああ、そんなに警戒しなくても良いだろ。
 別に取って食おうってわけじゃないんだし。


 ここんとこずっと、忙しくてかなわねえ。
 蜀を併合して一年。
 一応、戦いの世は終わりを告げた。


 けど、俺にとったらまだまだそれは通過点に過ぎない。
 先人達が夢に見た乱世の果てを、俺が背負っているんだと思うとな、柄でもなく緊張したりする。


 けどま、何とかなるだろ。
 さすがにめんどくせってわけにはいかねえんだから。


 おっと、話がそれちまったな。
 お前を呼び出したのは他でもない。
 頼みがあるんだ。
 文才のあるお前になら、きっとできる仕事だ。


 ――――貴公に、魏の歴史書の編纂を命じる。


 はあって、何を惚けた顔しているんだ。
 これは国の一大事業だ。
 それ相応の結果を出してもらわなきゃ困る。
 遣り甲斐のある仕事だと思うんだが。


 意図が読めないって顔してるな。
 俺は、別にお前に何かを強要させるわけじゃない。
 お前の好きなように書けば良い。
 

 それでもまだ納得いかないのか。
 何を考えているのか分からない、か。
 俺も信用ないんだな。
 いや、ま、当然と言えば当然か。


 まあ、確かに、ただ歴史書を編纂するだけなら誰にでもできる話だ。
 優秀な文官はたくさんいるんだからな。
 だから、お前に任せることはない。


 ……んだけどな、文官たちにはできなくて、お前にしかできないこともある。
 お前は魏蜀の戦いの決着の時、その場にいただろう。
 それがお前に歴史書を編纂させる理由。
 やっぱ直接見聞きした奴じゃなきゃなって俺は思ったんだ。
 それだけ。


 いやー、お前なら結構良いものができるんじゃないかってな。
 勿論俺だって協力はするぜ。
 国の書庫だろうと父上の遺品だろうと、何なりと好きに見てもらって構わねえ。
 話を聴くのに紹介状がいるってんなら、いくらでも書いてやる。
 かかる費用は勿論国費から出す。
 毎日の寝食には事欠かない屋敷を用意させる。


 悪い条件じゃないだろ。
 俺には面倒くさいことこの上ないが、お前ならできるはずだ。
 どうだ?


 あのな、別にお前をどうこうするつもりなら、とうに片づけている。
 こんな回りくどいことすることないだろ。
 それに、不本意だが、約束だしな。
 って、そんなに驚くことか?
 俺は今まで、一度交わした約束を違えたことはないと思うんだが。


 つうか、ここまで俺が譲歩してんのに、お前はまだ渋るのか?
 おっ、そうか。
 引き受けてくれるか。
 お前ならそう言ってくれると思ったぜ。
 じゃあ、早速今日から頼む。


 ああ、あと、ついでで良いんだが、調べてほしいことがあるんだ。
 別に大したことじゃねえよ。
 姜維のことだ。
 

 何でそんなに驚く?
 俺が姜維の名を出したことに驚いているのか。
 ま、確かに片は付いてるんだが、な。
 気になるだろう。


 ああ、だから、そんなに緊張するなって。
 国の流れをまとめるついでで良い。
 それとなく調べてもらいたい。
 あいつの顛末を。


 別に今更どうにかするつもりはねえよ。
 過去の妄執に捕らわれた凡愚どもはいなくなり、ようやくこの国は新しい時代を歩み始めたんだから。
 そこに邪魔してこなけりゃ、な。
 死んでようが生きてようが構わねえんだ。


 は? なんだって?
 俺が、変わったって?


 そうだな。
 昔の俺からしたら、今の俺は結構真面目に王様してるよ。
 めんどくせ、なんて言っていられないからな。
 新しい時代をつくると決めたときから、覚悟はできてる。
 相変わらず元姫には尻叩かれてるが、まあ、それなりに頑張っているかもな。


 時が過ぎて、環境が変われば、人も変わる。
 俺も、お前もな。


 っと、いけね。これから朝議があったんだ。
 また元姫に叱られる。
 んじゃ、頼んだぜ。


 とりあえず、劉公嗣に取り次いでおいたから、そっちへ向かってくれ。
 ああ、ほら、驚いている場合か。
 じゃ、頼んだからな!



  +  +  +  +  +  +  +



 さて、珍しく来訪者があったかと思えば。
 これまた珍しい顔だな。


 司馬昭殿から話は聞いている。
 歴史書の編纂をするそうだな。
 それに協力してほしいと。


 私にできることは何もないとお答えしたのだが、あなたがここへ来られてしまったということは、私の返事は届かなかったのだろうか。


 ああ、あなたに八つ当たりしてしまっただろうか。
 それで、私に訊きたいこととは何だろう。


 うん? とりあえずこちらへ向かうように言われただけで、何も準備は整っていない、と。
 それは大変だったな。
 司馬昭殿はあのようなお方だから、あなたも早々にあきらめた方が良いかもしれない。


 ではひとつ、私があなたの聴きたいことを当ててみるとしよう。
 ――――ずばり、姜維のことでは。


 ああ、当たったか。良かった。
 正確には、それを所望されたのは司馬昭殿だろう。
 大きな器をお持ちなのに、時折童のような好奇心をのぞかせるから、周りにいる者はさぞ驚いてばかりだろう。
 私は司馬昭殿とお話しすると、いつも驚かされるから、心臓がもたない。


 そうかそうか。そんな話は良かったな。
 姜維。
 姜維のことか。
 姜維のことを書くのは、なかなかに大変だと思う。


 色々な人に話を聴いてみると良い。
 そのたびに違った像が浮かび上がってくるだろう。
 それらをあわせて、あなたが思ったとおりに評価すれば良いと思う。


 私がどう思っていたか、か。
 そうだな。
 可哀相に、と。
 蜀で見ていたときは、ずっとそう思っていたな。


 蜀の過去を背負っていたのは姜維だったから。
 国の行く末を託されて、その重圧を一身に受けていられたのも、姜維だからこそ、だっただろう。
 だから、過去に捕らわれていた姿は可哀相だと。


 何故止めなかったか、か。
 では聞くが、もし何か言ったとして、姜維を止めることができただろうか。


 止まらなかったであろうよ。
 止めたらもっと姜維が苦しくなる。


 だから私には止められなかった。
 それが間違っていたのだと言うのなら、やはり私は暗愚なのだろう。
 あんなふうにすることが、精一杯だったのだからな。
 司馬昭殿にも、お手間を掛けさせてしまったが、私の我儘を通してもらったことは、とても感謝している。


 ああ、今日は天気が良いのだな。
 あんなにゆっくり雲が動いていく。
 成都とはまた違うこの空も、私にとっては好ましいものだ。


 何ものにも縛られず、あの雲のようにのんびりと日々を過ごす。
 争いもない、穏やかな日常は、かけがえのないもの。
 そんなことを言うと、また怒られてしまうかもしれない。


 だが、誰も傷つかない日常を、誰が侵して良いだろうか。
 今の自分を見つめて、今の幸せを感じることができるのなら、それほど幸いなことはないと、私は思う。
 あなたにも、そのような毎日が訪れると良いのだが。


 もう、戦乱の世は終わった。
 そろそろ先人たちの夢が覚めても、良い頃だろう。


 司馬昭殿が新しい世をつくっていく。
 私は私で、新しい道を模索していくつもりだ。


 動き出した歯車は、風を受け、ゆっくりとではあるが、着実に回り続ける。
 その先に光を見出していくことが、残された者の務めなのだろう。


 ああ、そうだ。姜維の行く末を調べてみるつもりなら、とある場所を訪れてみると良い。
 私よりずっと、姜維のことを知る人物に会えるはずだ。
 その者から直接話を聞けば、少しはあなたの疑問が解決するかも知れないぞ。


 誰か、とは。さて。
 あなたの想像通りの人物だと思うのだが。
 実は心当たりがあるのだろう。


 ふふ、たまには私の勘も当たるものだな。
 ああ、そうだ。初めに言っておく。


 ――――姜維は死んでいる。


 そのことはわきまえて訪ねてほしい。
 真実はあなたの目で。
 それから歴史書の編纂にあたると良いだろう。
 素晴らしい歴史書になることを、心から期待している。