『君にとりこ』  サンプル




「ホントにこんなところにあるのかよ」


 ひたすら夜道を歩き続けている夏侯覇は、きらきらした光を放ちながら、彼の目の高さよりも少し高い位置を飛んでいる妖精に、疑いの眼差しを向けた。


「本当よ。こちらからあなたの影の存在を感じる」


 表情を変えずに大真面目に答えた星彩に、夏侯覇は嘆息する。大きさは夏侯覇の顔より小さいくせに、この妖精はずばずばと容赦ない物言いをする。


 だいたい、ちょいちょいと空を飛んでしまえば簡単なのに、この妖精ときたら、「夜は夏侯覇殿がどこかにぶつかりそうで危ないから、飛ぶのは嫌」などと言うせいで、こうして延々と歩き続ける羽目になっているのだ。


 疑いつつも素直に従うしかない夏侯覇は、ため息をついた。
 見たことのない風景だ。明りは遠く、同じ闇ばかりが続くような気がする。頼りになるのは星彩の放つ光と、淡い月光くらいだ。
 どこからか生物の遠吠えが聞こえてきて、この不気味な空間に色を添えていた。


「影を拾ったらとっとと帰ろうぜ」

「ええ、もとよりそのつもり」


 星彩の誘導によってやってきたのは、古い大きな門の前だった。夜ということもあり、闇の中にぼんやりと浮かぶ木製の重厚な門はぴたりと閉じられており、何人の侵入も許さぬ気配である。
 夏侯覇は当然初めて見るものだったが、星彩は「ここよ」と言って遠慮なく門を飛び越える。


「あ、おい、ちょっと待てよ」


 あわてて夏侯覇もそのあとに続いた。星彩の放つ光の粉によって、夏侯覇は飛ぶことができるのである。慎重に地面に降り立つが、深夜なので辺りはしんとしている。


「おいおい、本当に大丈夫か?」

「影を落とした間抜けな夏侯覇殿は黙ってて」


 ぴしゃりとそう言われれば、返す言葉もない。


「あちらから、不穏な空気を感じるわ」


 彼女の第六感に触れる何かが、この奥にあるらしい。


「ちょっ、面倒事はご免だぜ」


 見たこともない場所の、見たこともない建物に侵入しているのだ。どんなものが住んでいるのかも分からないところで、派手な大立ち回りは勘弁してほしい。


 ……と、夏侯覇が思ったところで、星彩が止まるはずもない。
 闇を引き連れながら奥へ進むと、視界いっぱいに広がる、だだっ広い屋敷が姿を現した。見渡す限り建物が続いている。


「何なんだ、ここは? 何をするところなんだか」

「こっち」


 物珍しさに辺りを見渡す夏侯覇には目もくれず、星彩は一点の方向を指さして、ずんずん飛んでいく。真っ暗な中では入口も定かではないし、星彩だってこの場所は初めてであるにもかかわらず、彼女の進む先には迷いがない。


「はいはい、ついていけばいいんだろ」


 何を言っても聞き入れない連れに肩をすくめながら、夏侯覇もその先に従う。
 すると、闇の中にほんのりと明りがついている部屋が見えてきた。近づくと、何やら陰気な声が聞こえる。


「ふふ……今宵はあの諸葛亮が留守だ。この機を逃す手はあるまい。準備は整うておるだろうな?」

「はい、阿闍梨様。すでに姜維には秘薬を含ませております」

「そうか、それは良い」


 ひそひそと交わされる会話に、夏侯覇は、状況は良く分からないものの、顔をしかめた。楽しい話ではなさそうだということくらい、彼にもわかる。しかも、これから姜維とやらがどうなるかということも察しがついた。


 夏侯覇は見た目童のようであるが、その実中身はそれほど若いわけではない。童心を忘れていない、という点では子どもに近いのかもしれないが。


「夏侯覇殿、こっち」


 星彩は夏侯覇の耳を思いっきり引っ張って、その部屋の脇をすり抜ける。痛みに危うく声をあげそうになった夏侯覇は、あわてて口元に手を当てた。


 何なんだ、こいつはもう…。


 今夜だけで何度目かのため息をついて歩いて行く。すでにその身は建物の中にあるのだが、もはや突っ込むことにも疲れた。


「ここだわ」


 星彩がようやく止まったのは、やはりぼんやりと明りがついた部屋の前だった。


「ん?」


 その中から聞こえたうめき声に夏侯覇は首をかしげた。


「何だ?」

「行くわ」


 容赦なく星彩が襖をあけたので、すぐさま部屋の中が明らかになった。青々とした草色の床の上に、うめき声をあげていた正体が転がっていた。


「うぅ・・・」


 白い夜着に身を包んだ身体を丸めているのは、まだ若い青年であった。


「大丈夫か!?」


 あわてて駆け寄り顔を見ると、熱でもあるのか、端正な顔を赤く染めている。熱い吐息が零れるその姿を見て、夏侯覇はどきりとした。


「夏侯覇殿、あなたの影はこの人が持っている」

「え?」


 そう言われても、気軽に質問できる状況ではない。とりあえず寝床に運ぼうと彼を抱き上げた。


「うわ……」


 くにゃりと柔らかい体からは抵抗はない。ただ抱きあげられたのがわかったらしい青年が、うっすら目を開けた。


「っ!」


 熱っぽい潤んだ目を向けられて、またも夏侯覇の胸がざわめく。


「あ…なた、は…?」


 呂律の回らない口調で問いかけられたが、夏侯覇のほうは胸が詰まって言葉が出てこない。


「えっと…」


 なんとか答えようと口を開きかけた、そのとき。


「しっ!」


 星彩が厳しく叱責した。
 それから再び夏侯覇の耳を遠慮なく力いっぱい引っ張る。彼女の小さい姿からは想像もつかないが、力は相当に強いのだ。
 夏侯覇の抗議の声は、星彩の発言にかき消された。


「誰か来るわ」

「!」




《本編に続く》