『君を想う』  サンプル





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 ――――ずっと、ずっと一緒にいられると思っていた。


 すでに夜は更けている。誰の声も、誰の気配も感じられない部屋の中に、彼はぽつねんと一人立ちつくしていた。とうに皆寝静まっている時間帯に、まるで一人だけ取り残されたようにしているのは、いかにも今の彼の立場をよく表している。
 ただ、頭の中を支配しているのは、初めて愛した人物のことばかりだ。


「・・・・・・」


 蕩ける笑顔が好きだった。けれど、今脳裏に浮かぶのは苦悶に満ちた顔だけ。それがまた、もう取り返しのつかない現実を、まざまざと突き付けられているのだと実感する。


 彼とは想いを通じ合っていたし、何度も命の危険を一緒に乗り越えてきた。命の危険がいつでもそばにあることは知っていたものの、それすら乗り越えていけると疑いはしなかった。
自分のことを一番理解してくれたのは彼だったし、自分もまた、彼のことを思う気持ちは誰よりも強いという自負もあった。
 彼のことが好きで、彼も自分を好きでいてくれて、それだけで十分だった。


「・・・・・・」


 己の手を見て、絶望感に満たされる。
 どうしてこんなに、自分は無力だったのだろう。
 鍛錬を欠かしたことはなかった。
 誰よりも強く、強く想っていたはずだったのに。


 薄暗い室内に浮かぶ自分の手が、一瞬血にまみれているように見えて、はっとした。
 ・・・いや、血まみれなどではない。
 そんなはずないのだ。


「っ・・・!」


 こみ上げる苦い思いが苦しくて、強く唇を噛み締める。結局己は、自分の命を懸けても惜しくないほど大切なものを守るだけの力がなかったのだ。


「何で・・・」


 言葉が詰まってそれ以上出てこない。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 答えは出ない。救いもない。
 だってもう、自分は何もできないのだから。


「くっ・・・」


 ただひたすらに、悔恨の念が浮かんで募っていく。幸せな日々が続いていた分だけ、この絶望は深いのだろう。これからもこの絶望からは逃げられない。


「あ・・・」


 彼は何の表情も浮かべぬまま、何とはなしに天井を仰ぐ。
そこには、聴き及ぶ桃源郷のような世界があるのだろうか。もしそこへ行くことができれば、また彼とともにいられるのだろうか・・・。


「何を・・・」


 自分は何を考えているのか。再び出会えたとしても、彼は、こんな非力な自分を許さないだろうに。


 ――――ああ、やはり自分は無力だ。


 彼は絶望感の欠片を、大きなため息とともに吐き出した。





   《本編へ続く》