『みらいへ』  サンプル


 至る所で剣戟の音が聞こえる。激しく刃物と刃物がぶつかり合うたびに、悲鳴と歓声が同時に沸き起こる。どさり、という妙に生々しい音は、きっと事切れた兵士の最期の声だろう。


 喧騒は収まることを知らず、悲鳴にも似た叫び声が味方のものであることに、夏侯覇は顔をしかめるだけで何もできなかった。


「くっそ・・・!」


 あちこち助けに行ってやりたいのは山々である。
 しかし、間に合わない。


 味方と敵の数は圧倒的な開きがある。空城と油断して気の緩んだ味方と、虎視眈々と罠にかかるのを待ち構えていた敵軍。そこから言って既に勝負は決していたような気もする。


 ――――トウ陽への出陣。本来ならば、そこまで本格的な戦になるはずではなかった。
 偵察部隊としての役割も担う夏侯覇たちの軍が入ったときには、トウ陽の城には敵の姿はなく、難なく城を占拠する事が出来た。ケ艾の裏を掻いて、まんまとその地を手に入れた――――はずだったのだ。つい先ほどまでは。


 度重なる北伐の失敗のなか、ようやく手にした勝利を、味方兵たちはどれほど喜んだだろう。国の財政は逼迫し、民には重い税がかけられている。


 ようやく自分たちの行いが報われるときが来たのだと、兵たちが互いの苦労を語り合っていたところの急転直下。


 実は空城の計が仕掛けられていたと知るや、喜びは一転し、それは絶望と混乱へと変わっていった。一度浮き上がった気持ちを根底から崩されたのだ。その意味でも味方兵への衝撃たるや、計り知れないものがある。


 混乱のまま攻められては、何もできぬうちに敵の弓の餌食になっていく兵が数多いるのも仕方ない。


「ったく、悪趣味だぜ」


 いち早く事態を理解した夏侯覇は、雨のように降ってくる矢を大剣で薙ぎ払いながら、声を張り上げて味方を鼓舞した。


「慌てんな! こんなときのために、普段から姜維仕込みの地獄の特訓を毎日繰り返していただろ! 良いか、弓兵とは一気に距離を詰めろ! 矢を射かけられてもよく見て払い落とすんだ!」


 夏侯覇の少し高めの声は、良く城の中に響き渡った。それで僅かに残る冷静さをどうにかかき集められた味方兵は、再び剣や槍を手にとると迎撃を始めた。


 少しだけ夏侯覇は胸をなでおろしたが、そうは言っても兵力の差は如何ともし難い。そもそもこうなることを見越して相手は準備をしてきたのだから、簡単にこの城から抜けられないことは間違いないだろう。


 ならばせめて先陣を努めて、退路を確保しなければ。


「はっ!」


 鋭い裂帛の一声とともに、夏侯覇は持っていた大剣をいとも簡単に一閃する。光の軌跡を残したその一撃で、目の前の敵兵が三人、あっさり過ぎるほどあっけなく倒れ込んだ。


 どさり、といっぺんに倒れる味方を目の当たりにした魏兵が、驚きのまま夏侯覇を見る。身の丈は誰よりも小さいのに、鎧兜に覆われた姿は誰よりも大きく見える。


 兜の隙間から覗く双眸は、まんまと罠にはまった己の迂闊さへの怒りと、味方を一人でも多く逃がしてやらねばという責任感とで、まるでその眼光だけで人を射抜けそうなほど鋭く剣呑な光を湛えている。


「さあ、ここは通してもらう! 俺は姜維のもとへ帰らなきゃならないんだからな!」


 夏侯覇の気迫に押されて、最前にいた魏兵はたじろぎ、一歩後退した。彼らが今目の前に見ているのは、蜀兵の亡骸がほとんどである。罠は成功し、敵は対等な抵抗もままならずにいる。


 にもかかわらず、鎧武者を前にした彼らは、転がる亡骸がすぐ後の自分の姿に見えたのである。最前線にいて、直接夏侯覇と対峙した魏兵のほとんどが、そんな錯覚を覚えた。これでは動けなくなるのは当然である。


「何をしている。敵は少数、一斉にかかればたやすく仕留められるだろう!」


 奥から指揮官らしき兵の声が聞こえ、それにはっとした魏兵たちは、わずかに震える手に再び力を入れ、剣を構えた。


「良いぜ、止められるもんなら、止めてみろって」


 そう言って、大剣を構えて見せる夏侯覇。
 本音は、限りなく厳しい状況であることを自覚している。とにかく何と言っても、兵力が圧倒的に違うのだ。今目の当たりにしている兵たちが自分たちを取り巻いている敵軍のすべてではないことは、誰に言われずとも分かっている。伏兵や罠はたくさん用意されているはずである。


 ただでさえ蜀は魏に兵力で及ばない。そこをひっくり返そうと思ったら、奇策に賭けるしかないのだろうが、今はそれすら見破られている状況なのだ。


 圧倒的に不利。
 今にも死神が大きな鎌を振り下ろさんとする中でも、しかし、夏侯覇は諦めるわけにはいかなかった。


 ――――生きて姜維のもとに帰る。


 今はトウ陽を取れずとも、生きていれば再起の可能性はいくらでもある。ケ艾に借りを返す機会も得られるだろう。逆に死んでしまえばそこで全ては終わりだ。


 まだ終わるわけにはいかない。
 姜維を、あの孤独な指揮官を一人にするわけにはいかないのだ。


「さあ、邪魔する奴はかかってこい!」


 ひときわ声を張り上げて、夏侯覇は敵の軍勢の中に突っ込んでいった。